遺跡見学

遺跡の見学は,現地の案内人にお願いした。

 

今から遺跡見学 遺跡近くのロータリー
西大仏 左写真に続く(東側へ)
記念写真 西大仏
東大仏周辺 断崖に多くの石窟
UNESCO にて修復作業の実施中 修復作業作業中
西大仏上部 破壊された石仏の破片
西大仏上部への通路 鉄筋が見える
ここにも鉄筋 修復作業中(記念撮影)

何故か9-10mm 程度の丸い鉄筋(丸鋼)が!!
この丸鋼に関して,大きな疑問があった。鉄は,BC-1400年頃より鉱石から鉄を製造するようになったと言われているが,このような丸鋼が「5. バーミヤン」に記されている石仏築造時において製造できるはずがない,と考えるのが常識的だろう。しかし,大仏の断片には鉄筋が出ている。また,この石仏は石像と聞いていたが,分類・整理をしている断片は岩には見えない。柔らかい礫岩状に見える。
この鉄筋に対する疑問は,石仏の断片の意味するところと同時に以下の記事によって解決した。この鉄筋のことがあり,本記事も長い間足踏みを余儀なくされていた。

 

続く戦い、残る廃虚…大仏破壊のバーミヤン(読売新聞 3月26日, 2001年)の記事は:

 

「世界最大級の大仏立像二体が爆破によって粉々に破壊されたアフガニスタン中部のバーミヤン。記者(佐藤)は二十六日午前、外国報道陣約二十人の一員として首都カブールから国営アリアナ航空のプロペラ機で到着した。冠雪した山並みと雪解け水が美しい町では、アフガンを実効支配するイスラム原理主義勢力タリバンと反タリバン勢力との戦闘が続き、一般住民の姿は一人として見かけなかった。「昨夜も町の中心部で戦闘があった。敵兵五十人を殺害、十五人を捕虜にした」と若いタリバン兵士が得意げに語りかけてきた。
 町中心部から約二キロ離れた空港は砂利で固めた滑走路が一本あるだけ。外国報道陣はタリバン政権側が用意したトラック四台に分乗して空港を出発。途中、市街地を通過したが、戦闘で住民が逃げ出したため、砂を固めて作った家並みだけが残る廃虚だった。部屋に残されたカレンダーが風に揺れる光景が窓越しに見えた。トラックが巻き上げる砂ぼこりが目に入って痛い。人影は反タリバン勢力と戦うカラシニコフ銃を手にしたタリバン兵士だけだ。町のあちこちでトラックの荷台に載せた対空砲が目に付いた。
 約十五分間でバーミヤンの北側に位置する約千の仏教石くつ群に到着した。石くつ群は幅一キロ余りにわたって広がるが、石仏立像の前には約百人の武装したタリバン兵士らが報道陣を遠巻きにして見守った。
 タリバン政権は偶像崇拝がイスラム法(シャリーア)に反するとして、二月二十六日に、アフガニスタン全土での彫像破壊を命ずる布告を出した。タリバンの爆破作業を目撃したカブール駐在のカタールのテレビ記者によると、高さ三十八メートルの大仏立像はダイナマイトによる爆破が約三回行われた。同五十五メートルの大仏立像は、共産主義政権時代に鉄線などを使って補強・修復されたため簡単に破壊できず、脚部、頭部、首、左右の肩、胴体の順で計六回も爆破された。首と頭部はタリバンの兵士三十〜四十人が、がけの上からロープで降りてダイナマイトを仕掛けたという。
 大仏を眺めていると、あるタリバン兵士が報道陣に「外国人は今回の仏像破壊をすごく悲しんでいるんだろう」と尋ねてきた。約二時間に及んだ取材を終えてトラックの荷台に乗り込むと、三十人余りのタリバン兵士が見送りに来た。
 笑顔を見せながら、兵士たちが「地獄に落ちろ!」とパシュトゥー語でば声を浴びせかけた。ば声の裏には、制裁を科し続ける国際社会への憎しみが込められていたのかも知れない。」
上記記事のおいて,赤字部分の修復において,鉄筋が使用されたのであろう。

断崖の多くの石窟も修復作業中であった。 石窟への通路
断崖の石窟 石窟内部(壁画が描かれていたようだ。)
石仏よりバミヤン地域を臨む 進行中の修復作業
修復用の道路か 石仏後の上部(内部の通路を通って上ることが可能)
石仏像の最上部 石窟内部(壁画あり)
修復用の道路か このような鉄筋が造営時にあったのだろうか,と不思議に思っていた。
石窟内部(壁画が描かれていたようだ。) 地上の人物と比較すると石仏の大きさが想像できる。
遺跡前に埋められた対人地雷の撤去作業

 

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