バーミヤン
西アジアからインドへ抜ける交通の要所であるバーミヤンは交易の要衝として繁栄してきた。交易による富の蓄積がこの町を豊かにし,この二大仏の造営を可能にした。しかし,いつから仏教が栄え,大仏がいつ造られたかは,ほとんど記録もなく定説がなかったが,朝日新聞 2004年12月18日において以下の記事が掲載され,造営年度に関する議論は幕をおろしたようだ。
バーミヤンの大仏築造は6世紀 科学的に裏付け
アフガニスタンの世界遺産バーミヤン遺跡で2001年にイスラム原理主義政権タリバーンによって破壊された東西2体の巨大仏の築造が、いずれも6世紀代の可能性が高いことが18日、分かった。東京で開催中の国際会議で、放射性炭素年代測定をしていたドイツチームが報告した。築造年代が科学的に裏付けられたのは初めて。
測定結果は、東京文化財研究所で開かれている保存修復に向けた第3回専門家作業グループ国際会議(独立行政法人文化財研究所・ユネスコ主催)で、バイエルン州保存事務局関係者から報告された。ドイツチームは、両大仏の足元に残された複数の残骸(ざんがい)の中に含まれるわらや木片などを採取し、放射性炭素年代測定法で分析した。その結果、東大仏が紀元507±12年、西大仏が551±15年という年代が得られた。これによって、東大仏が造られた後に西大仏が築造されたことが明らかになった。
これまで大仏の築造年代は美術史的な様式などから推定されてきたが諸説にわかれ、決め手に欠けていた。
バーミヤンに詳しい前田耕作・和光大名誉教授は「築造過程に初めて科学的根拠が与えられたことは、バーミヤン成立の歴史的背景を探る上で極めて重要な成果」と話している。
〈キーワード・バーミヤンの大仏〉 破壊前の東大仏は38メートル、西大仏は55メートルの巨大さを誇った。7世紀の中国僧、玄奘は「大唐西域記」に両大仏が並び立つ光景を記述している。大仏を納めた仏龕(ぶつがん)の壁画には東西文明の融合も見られ、注目されてきたが、文献記録がほとんどないため謎に包まれていた。2001年、多くの石窟(せっくつ)とともに爆破され、ユネスコなどの主導で復興作業が続いている。
バーミヤン(Bamiyan)近郊の住民
バーミヤンに関して,Kabul 在住の方に聞いた話し。バーミヤンに近郊の住民は,他の地域と異なりモンゴル系の人が住んでいて,言葉も異なるとのこと。)同様の記事は参考資料No. 1 シルクロード紀行No. 17 にも紹介されている。)
また,2006年7月7日,Mazar-e-Sharif でのTashkurgan Gorge 近くの河畔で催されたパーティにおいて,インドの大学へ留学されているアフガニスタンの学生の話によると,バーミヤンの大仏はチンギス・ハーンのつれてきたモンゴル系の人達によって作られた,と聞かされた。
これらの情報によって,バーミヤン遺跡に非常に興味を持つこととなり,シルクロードに関しての多くの資料を読むことになった。その結果,バーミヤンの大仏(石仏)はチンギス・ハーンの遠征前に作られたものであることが分かった。